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映画「ヒロシマの校庭から届いた絵」鑑賞会のご報告

映画鑑賞会10月31日(金)、全校生徒による平和映画鑑賞会が行われました。映画のタイトルは「ヒロシマの校庭から届いた絵」。終戦間もない1947年に広島市立本川小学校の児童からアメリカのワシントンD.C.の教会に贈られた絵画をめぐるお話です。この日は映画の企画・制作者である重籐・マナーレ・静美さんもご来校くださり、生徒たちと直接お話していただく貴重な機会となりました。

「ヒロシマの校庭から届いた絵」は、広島の原爆が落とされた場所からわずか約350メートル西にある本川小学校(当時は本川国民学校)と、米国の首都ワシントンD.C.にあるオール・ソウルズ・ユニテリアン教会との交流を描いたドキュメンタリーで、昨年11月に発表されました。日本では今年10月のアメリカ大使館主催の上映会を皮切りに、大学を中心に上映会が行われています。

1945年の原爆投下で、本川小学校では児童約400人と教職員約10人が被爆死しました。「原爆ドームは川岸の向こう」というくらい爆心地に近く、生き残った児童はたったの1人でした。翌年11月、オール・ソウルズ・ユニテリアン教会のパウエル・デイビーズ牧師は、新聞に掲載された、米軍高官が原爆投下を祝してパーティーで「きのこ雲」をかたどったケーキをカットしている写真を見て驚きました。そして、原爆の惨状を新聞のコラムで訴えたのです。その記事はマッカーサー元帥の片腕だったハワード・ベル博士が読むところとなり、広島を視察したベル博士は、デイビーズ牧師に文房具を広島の子どもに贈ることを提案したのです。デイビーズ牧師の呼びかけで集まった文房具は500㎏にもなり、それは3年間に渡って広島の小学校や孤児施設に届けられました。
本川国民学校の児童たちも文房具を受け取り、贈られたクレヨンや紙を使ってお礼として描いた絵や書道作品を同教会に送りました。その中の48点が教会の地下に保存されていたことがわかったのが2006年のこと。色あせてカビもついていた絵は修復で色鮮やかによみがえりました。2010年に作品たちは広島に里帰りして、60年ぶりに製作者との再会を果たしました。展示会の場には、お金を出し合って修復してくれたオール・ソウルズ・ユニテリアン教会のメンバーの方々と、63年前の国民学校時代にその絵を描いた方々との暖かい交流がありました。戦後すぐ、まだ復興もままならない時代に子供たちが描いてアメリカに贈ったのは、振り袖を着た女の子やこいのぼり、運動会、公園、花などの、明るい生き生きとした絵でした。60年前の広島の子どもの姿やその色彩がいつまでも余韻として残る、そんな希望の映画でした。

制作者のマナーレさんは、広島県生まれ大阪育ちの、舞踏家・振付師・舞台芸術監督で、現在はアメリカにお住まいです。もともと映像作品は40年前から制作されていて、舞踊映像DVDでは全米ケーブルテレビでの最優秀賞も受賞されているマナーレさんですが、この ような大作映画は初めてとのこと。そんなマナーレさんがこの映画を撮るきっかけとなったのは、毎年8月にワシントン D.C.で開かれている日米広島長崎被爆地慰霊祭平和会議に出席された日本原水爆被害者団体協会の方々が、2006年に重藤さんの自宅にホームステイされたことでした。彼らの滞在を知ったオール・ソウルズ・ユニテリアン教会から、「59年前広島の子供たちから贈られた絵を保管しているので、被爆者の方に是非見て欲しい」と招待があったのです。それが、本川小学校の子供たちの絵と書でした。教会のメンバーの方の自宅に保管されていたというその作品は、傷みはあるものの、生き生きとした躍動感あふれるもので、その当時の、広島の子供たちを思い、全員が心を打たれたと言います。
そこからマナーレさんとこれらの絵の関わりが始まりました。まずは絵を修復したいと考えたマナーレさんは、友人の絵画の修復士に相談しますが、とても個人で負担できないような金額が必要であることがわかりました。しかし新聞記事になるなどして、自分たちが考えていた以上にこの絵に意味や価値があることをわかって下さった教会メンバーの方々が、寄付を募って下さったのです。修復が完成し、教会にその絵が運び込まれてくるのを待ちわび、よみがえった絵を見て喜ぶ教会の方々。マナーレさんはその修復の様子、教会の方々の心の変化を記録しました。そこから、この映画の製作はスタートし、完成までには実に7年の歳月を要しました。

マナーレさんと泰田さん映画が終わり、制作者挨拶では、マナーレさんと、絵を描いた子供たちの1人である門田(もんでん)さんが登場しました。映画の中でも印象的だった赤いグラジオラスの絵を描かれたのが門田さんで、東京在住ということで今回いらして下さいました。

「グラジオラスの絵は、クレヨンが足りなくてもっと色を使いたいのにと思いながら描いたのを憶えています。小学校3年の時に何気なく描いたものを、こうして今、映画にしてくださって、それがほんの少しでも平和のことを思い返すきっかけになるということが、本当に感慨深く思えます。今日見て下さった方の中で、自分が何も種をまかなかったと思われても、どこかで何年後かに何かの役に立つことがあると思ってお過ごしくださるように願っております」(門田さん)

生徒からの、「当時のアメリカの中にもそうやって日本の小学生に寄付をしてくれた人々がいたというところに驚いた。自分が子どもの立場だったとしたら、ひどいことをした国からの贈り物は喜べないと思いますが、どういう思いでアメリカからの贈り物を受け取ったのですか」といった質問や感想に対しマナーレさんは、「戦争というのはお互いの市民が犠牲者で、アメリカでもたくさんの人々が亡くなっています。お互いに被害者意識を持つよりも、前向きに平和を求める心を持つことを、戦後の教育で先生方は教えていらしたのではないでしょうか」(マナーレさん)。
「当時は物がなかったので、文房具は本当に嬉しかったです。お金を集めなければ寄付はできませんから、アメリカの善意が集まってやってきたということはみんなわかっていることでした。戦争というのは勝った国も負けた国も、最後は大変なんだね、というふうに母から教えられたことを憶えております」(門田さん)

また、「この映画制作で一番大変だったことは何ですか」という質問に、マナーレさんが「資金づくりです」と率直にお答えになる場面も。
「この映画をつくるのに7年もかかりました。それは本業の舞台芸術の仕事で1年働いて資金を作ったら、その都度監督やカメラマンに依頼するというやり方をしていたからです。それから日米ファウンデーションからや個人的な寄付もお願いしました。おかげさまで、何百人という日米のお友達や関係者がサポートして下さったので完成させることができました。よく自分でもここまでできたなと思います。私の主人は、いつか家が売られるんじゃないかと大変心配しておりましたが(笑)。資金に協力して下さった方々、そして撮影に協力して下さった17名の方々、誰一人欠けても、この映画はできませんでした」

記念品の贈呈生徒会長からは、お礼のご挨拶と記念品の贈呈が行いました。
「アメリカではギフトをもらうと目の前で開けるんですよ。今日はアメリカ式で行きましょうか?」とその場で開けて、記念品をとても気に入って下さったご様子。マナーレさんのオープンさに、生徒たちも大喜びでした。
「日米の、というよりも人間の平和仲間が増えていけばいいと思っています」(マナーレさん)

この鑑賞会の機会を作って下さった酒井理事長先生からは、「私がオール・ソウルズ・ユニテリアン教会に訪問し、マナーレさんに初めてお会いし、子供たちの絵を見て深い感動を覚えたのは2011年のことで、この映画はまだ製作中でした。「日本の子供たちは恨みの絵を描かずに、希望と夢のある絵を描いてお礼とした。日本の子供たちは原爆を落としたことを許してくれた」と、デイビーズ牧師は感動されたそうです。こうして皆さんに見ていただいて、私も感動でいっぱいです。私たちは何が本当に平和かよく考えて、お互いに平和のために尽くしていきたいと思います」とのお言葉がありました。

いろいろな驚きや、感情が喚起される映画でした。本校でも毎年、文房具やおもちゃを世界の国々で争いに巻き込まれて厳しい生活を強いられている子供たちに贈ったり、アフリカに毛布を送る運動などを行っています。この映画を見て、日本もかつては贈られる側であったこと、そして贈られた側の気持ちを改めて実感した生徒も多かったことと思います。
重籐・マナーレ・静美さん、本当にありがとうございました。

RUNNING WITH COSMOS FLOWERS The Children of Hiroshimaこの絵とヒロシマの被爆地で育った子供たちのことを書いた本「RUNNING WITH COSMOS FLOWERS The Children of Hiroshima」がアメリカのペリカン出版社から2か月前に出版され、本校の図書館にも寄贈して下さいました。この本は全米の図書館にも置かれることが決定しているそうです。この本は全米の図書館にも置かれることが決定しています。
ワシントン・スケッチ:(3)コスモス/1 原爆爆心地近くの小学校 戦後はじめての運動会

(佼成学園女子中学高等学校 広報室)